おかげさまで柳家は、2017年に創業100周年を迎えました。
一世紀を経て歩んできた100年の歴史と共に、この大きな節目を迎えることが出来る喜びは何事にも代え難く、感謝の念に堪えません。
これもひとえに、私達柳家を長きに渡り育てて下さった皆様方の温かいご支援の賜物と心より感謝申し上げます。
柳家は、1917年(大正6年)創業者 青柳とく が旅館として開業いたしました。
以来、現在の4代目に至るまで様々な歴史とともに、変化と継承を模索しながら歩んでまいりました。
ここに、100周年を記念し、柳家の100年史をご紹介させていただきます。〔2018年8月吉日〕
初代 |
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夫:青柳七五郎 |
妻:青柳とく 享年S.7.11.6(45) |
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大正6年、初代青柳とくが小島屋旅館を引き継ぎ、柳家として旅館業を営む。 以前は流山2丁目辺りに長男佐太郎と共に煎餅屋を営んでいたが、青柳本家(流山駅近く)の勧めで、跡継ぎの無い小島屋を生活の糧として継ぎ、柳家として旅館業を営む。 おりしも流鉄開業の翌年のこと。 ●青柳栄治(戦死、海軍士官) 享年S.2.3.18(17) |
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2代目 |
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夫:青柳佐太郎 享年H.17.11.22(99) |
妻:青柳満津 享年H.4.7.1(83) |
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2代目青柳佐太郎は、当初酒問屋に勤めていたが、弟栄治の戦死と母とくの不幸により、実家に呼び戻され、家業を継ぐこととなる。 その後、妻となる満津(地元お不動様の娘)と結婚し、暫くして、戦争に中国(支那)へ徴兵される。佐太郎が不在の間は妻満津が七五郎の弟姉妹の面倒と店の切り盛りを任される。 当時、大阪(市役所前の大きな坂のこと)の下で割烹旅館業を営んでいた柳家は、富山の薬売りが定宿にしていた。 また、慶応大学のボート部が、ボートは「やっからの渡し」の川岸へ置いてオールだけ担いできて、江戸川遡上練習の中間宿泊場として利用されていた。 オールは玄関前の軒へ立てかけて置いたから、ボート部が宿泊しているのがすぐにわかったという。 旧制一高のボート部の「遠漕歌」にも流山が歌われており(江戸川物語)、昭和10年代にも東大、商大、明大などが利根川遠漕にきて柳家に泊っている。(みりんの香る街 流山) 又、時には陸軍上官が宿泊していたため、空襲の際いち早く店に連絡が入り、防空壕に逃れることができたというが、当時の女将満津は、御客様を残して逃げられないと、宿泊客の非難を優先させたという。 昭和15年頃、旅館と料理屋を兼業していたが、警察から「流山は観光地ではないし、旅館と料理屋の兼業はまずいから、どちらか一方にしてもらいたい」(流山わがまち)ということで料理屋1本に切り替えた。 終戦後に2代目佐太郎が戦争から帰国し、昭和40年に地元建築技師島根佐一郎氏による書院造りの店舗(現在の建物)を新築する。 柳家正面玄関向かって左側に立つ万上みりんと屋号を記した古い屋根付き電灯看板は、この時、地元ゆかりの白みりんで有名な万上から寄贈されたものである。 その後、初代女将の満津は3人の娘に恵まれ、長女有子が、養子夫として八十治と結婚する。 |
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ボート部 |
書院造りの店舗建築 |
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3代目 |
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夫:青柳八十治 |
妻:青柳有子 |
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3代目八十治は、結婚後調理師の資格を取得(S.43.9)。 登戸の鰻店に見習いとして修行し、その後、店に戻り店の仕事をしながら築地市場でふぐ処理の技術を身につけ、ふぐ処理師の免許を取得(S.46.11)。 店の料理の幅と質を向上させた。当時、大勢の団体客が多かったため、料理人を2人ほど雇っていた。 |
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4代目 |
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夫:青柳宏幸 |
妻:青柳愁子 |
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その後、4代目宏幸が、大学、一般社会人を経験したのち、京都山科の料亭わらびの里にて3年程、その後東京日比谷あと村にて半年程修行し、30歳で結婚を機会に実家に戻る。 家業で仕事をしながら調理師免許(H.11.9)、ふぐ処理師の免許(H.21.3)を取得し、京料理の要素を料理に取り入れながら店の質の向上を図る。 平成25年7月に全国の商業施設や旅館の再生で有名な建築家松葉啓氏デザインにより、同建物をリニューアルオープンし現在に至る。 |